※実際は縦書きです。webで読みやすいよう内容は変えずに加工しています。
長年に渡り封じられていたローレライは解き放たれ、世界は預言に頼ることをやめた。
時とともに歪んでいったシステムにピリオドを打つことは容易ではなく、また、考えの違いから衝突は避けられず、ローレライ解放に尽力したものは身近なものや肉親を失うこととなってしまったのだった。
特にその中でも特筆すべきは、キムラスカ・ランバルディア王国の王家に連なる者である。幼い頃より預言に振り回され一時は身分さえ失い異なる名を用いローレライ教団そして神託の騎士団に属していたが、その彼がローレライを音譜帯へと還したのだ。
師匠と対峙し、苛烈を極める戦いを制し限界を超えた体でローレライの鍵を使いすべてに決着を付けた。その後、彼は行方知れずとなったものの時を経て人々の前に姿を現したのだ。ローレライは存在を同じくする者へ奇跡を贈ったのであろう。
「……何度、読んでも」
虫唾が走ると口の中だけで呟いた者の髪は赤く長い。手に持った本を閉じる手も荒々しく放り投げないだけましといった有様だ。
「おいおい、今日はその部分を見せにきた訳じゃないぜ」
仕方ないなと言わんばかりに肩を竦める者は短く切りそろえられた金髪と涼やかな目元が印象的な男だ。
「ならその部分だけ持ってこい」
「無茶言うなよ、アッシュ。もう本になっちまってるんだ。その形で渡すのが一番手っ取り早いだろ?」
「毎回毎回この同じ始まりの文章はいったい何なんだ。オールドラントの考察をまとめた本ならそれだけをまとめればいいものを……」
アッシュが今手に持っている本は最近刊行され、貴族にも民にも広く親しまれている昨今の考察をまとめたもの、その第三弾だ。三冊目になってもなお、頑なに冒頭の文章が記載されているとなるとこれはもう筆者のこだわりだとしか思えない。
「まぁ、別に間違ったことを書いている訳でもない。……毎回思うが、お前はこの短い文章のどこにそんなに怒っているんだ?」
ガイは常々不思議に思ったことをぶつけてみた。体裁をつけるためか多少大仰な表現が用いられてはいるが、内容自体はすでに大人から子供まで知らぬ者はいないようなものだ。不思議そうな目を向けられてアッシュは目を逸らした。
わからないのだ。何がこんなに不快なのかさえ。
「俺の所に関する部分が特に癇に障る。が、具体的にはわからない」
「うーん、俺も初め見た時にあまりにも美談調だなぁとは思ったが。実際こんなに綺麗なものじゃなかったっていうのを俺たちはわかっている分、あまり気分がよくないのかもしれないな」
「あぁ……」
相槌を打ったが、そうじゃない、という心の声がする。でも何が違うのかまるで掴めないのだ。考えようとしてもそれはするり逃げていく。まるで吹いたら消える暖かいマグカップの湯気のようだ。
しばらくアッシュの様子を見ていたガイだったが、アッシュの手から本を奪い、当初見せるつもりだったページを開く。
「ほら、これ。最近のエルドラント調査結果だ。妙だと思わないか?」
そういえば今回の本はそういう内容だと事前に聞いていた。一冊目はローレライの成り立ちについてと、その後ユリアとの契約を経てローレライ教団による教えが世界の中心となっていく流れを、二冊目はローレライが音譜帯の一部になったことによる影響の調査、主に第七音素と各種譜術威力の考察だった。それによるとすべての音素、その中でも第七音素はセフィロト停止に加えローレライが地上にないことでゆるやかに、しかし確実に減少していくことが示唆されていた。
「第七音素……? 局地的にエルドラントに留まっているだと?」
ようやく本に集中し始めたアッシュを見てガイはそっと息を吐いた。アッシュは戻ってきてからたまに先ほどのような様子を見せるのだ。納得できない何かを考えて堂々巡りを繰り返している。ガイにはどうしようもないことだがずっと気にはなっていた。しかし今はそれより本の内容だ。
「なぜだ。エルドラント自体の第七音素ですら年々昇っているというのに」
「そうだ、その結果を見ると妙に二か所高濃度の第七音素がある。おかしいとは思わないか」
示された場所の数値は明らかに他に比べ大きい。しかしこの本の調査報告は多岐にわたるためそれ以上の情報は得られなかった。この考察本は複数出版されておりこれは貴族向けのものだ。他に大衆用のもっと簡易的かつ読みやすい文体になったものと知識層、専門家に向けた専門書の色合いの強いものがある。今必要なのは専門書の方だった。
「専門の方を取り寄せてもいいが、時間がかかる。それよりどうだ、実際見に行かないか」
あまりに予想外の言葉を投げかけられて本から顔を上げた。あの場所にもう一度行きたいという気持ちはずっとアッシュの中にあった。しかしそれを誰にも言ってはいないのだ。
「第七音素であの場所だ。どうせもう一度調査隊を送るだろう。でも実際見るとわかることもあるかもしれないだろ? この目で、崩れる前のあの場所を知っているのは俺たちだけだ。ま、俺が気になるっていうのが正直なところだけどな」
考えておいてくれ、と明るい声を残して去っていったガイの後ろ姿が扉に消えてから
「かなわねぇな……」
という呟きがアッシュから零れ落ちた。
公務があるためすぐに赴くことはできない。しかし一日でも早く動けるようアッシュはその足でクリムゾンの元へ足を向けた。
その途中の中庭でシュザンヌと母付きのメイドがなにやら話し込んでいたため、気になり中庭へ通じる短い階段を降りる。
「まぁ、アッシュ。この場所にあなたが顔を見せるなんて珍しいですね」
「窓からお姿が見えたものですから。何をなさっておいでです? 今日は陽があります。陽射しをさえぎるものを持ってこさせた方がよいのではありませんか」
アッシュが戻って以降シュザンヌの体調は安定している。しかしそれでも寝込む日もある母親の身を案じずにはいられない。
「こんなにぽかぽかと暖かいのですもの。今日は少し、お散歩したいと思ったのですよ。心配してくれてありがとう。それよりアッシュならわかるかしら?」
これは傍らのメイドに向かって発せられた言葉ではあったが、明らかにアッシュに関する内容だ。何のことだろうかと尋ねるとシュザンヌは少し逡巡する様子を見せたがそれは言葉を探しているためのようだった。
「わからないのです」
「母上? 何がわからないのですか?」
「わからないことが、わからないのです」
とても困ったと体現するようにシュザンヌは己の頬に白い手を添える。
「何を言っているのかとお思いでしょうね。でもね、わからないことだけは確かなのですよ。ただ、なぜわからないのか、わたくしは何を思っているのか、どうしてわからないことがこんなに気になるのかが本当に不思議で」
アッシュは一体何を、と言いかけて言葉を飲んだ。それは先ほど自分自身体感したものと同じではないかと思い至ったのだ。己のことを書かれた文章の、どこの何が気にくわないのかわからない。わからないが、原因すらわからない。
沈黙を困惑と受け取ったのであろうシュザンヌは、当然の反応だと言わんばかりに傍らをそっと示した。
「あちらをご覧なさい」
たおやかな手が差したのは花壇の片隅、それも奥の方だ。そこに何かがあるなんて考えたことすらもない部分。
「石……?」
白く丸い石が置いてあった。だがそれは単なる目印のようだ。その後ろにおよそファブレ公爵邸の花壇には似つかわしくない花が咲いている。あれはシロツメクサだ。アッシュは七年、ローレライ教団にいた。だからこそあれがこんなところにある不自然さに気付くことができる。裏の森には自生していたかもしれないが花壇にはないものだ。
「あの花、シロツメクサというのでしょう?」
シュザンヌから小さく花の名が転がり落ちてアッシュは本当に驚いてしまう。いかに枕元で本を読むことが多いといっても貴族から見ればこれはほとんど雑草だ。気に留めるような花ではない。
「その可愛らしい花の名前を、わたくしはなぜ知っているのでしょう? いつ、ここに植えられたのでしょう。わからないのです……。でも、とても大切な花だということだけは確かですわ」
この花壇に勝手に花を植えることなど使用人は絶対にしない。庭師は草花の決定についていちいち主人に指示を仰ぐことはないがやはり定番や季節のものを丹精する。このようなどこにでもある多年草をわざわざ植えはしないのだ。
したがってここに植えたものはそれらを考える必要がないものに限られる。クリムゾンは有り得ないし、シュザンヌもこの様子を見る限り違うだろう。
残るはアッシュだ。しかしアッシュもまた、そんなことをするはずが……。
ちらりとルークという名が頭を過ったが首を振って否定した。
(ルークの頃の俺でもない。そもそも十歳の頃この花を知らなかったじゃないか)
なぜそんな昔の自分を思い出したのか、という疑念に対して、違うという感情が腹の底から湧き上がり唐突に疑念も否定の感情も消え失せていく。
(まただ)
何かに対して強くわからないことがあると、今のように何かに沈静化されたかのように感情が平坦なものへと変化する。ただ戸惑いだけが残るのだ。
「アッシュ……あなたも、なのですね」
はっと顔を上げたことでアッシュは考え込んでしまっていたことを自覚した。
「なぜなのでしょう。世界が預言から脱して、マルクト帝国との関係も幸いにも良好です。なによりアッシュ、あなたがこの家に帰ってきてくれてこれ以上の幸せはないはずですのに……」
確かな嬉しさとそこに一滴混じる切なさ、目の前のシュザンヌの姿がまるで自分自身のようだった。
(中略)
「これは、すさまじい有様だな」
「崩れ方が早すぎる。やはり急速に第七音素が失われているのは間違いない」
靴裏が白い瓦礫を噛み、快いとはあまり言えない音がする。ガイと二人で訪れてみたエルドラントはかつて見た面影などほとんど残していなかった。所々特徴的な部分と記憶とをすり合わせ奥へと進んでいく。
注意深く足を進める中でアッシュは後ろを歩くガイを見もせず小さく声を投げた。
「ガイ、お前はあの戦いのあと、何か……おかしいと思うことはないか」
「おかしいこと? 最近お前が考え込んでいることはそれか? あの後、か。いや、忙しすぎて慣れていないだけなのかおかしいことなのか判別できないことばかりだな」
「そうじゃない。世界を走り回っていた時の……いやもっと前のことを思い出してくれ。お前はずっとファブレ邸に居たのだったな。俺がローレライ教団にいた間も」
「何をいまさら?」
そのガイの心からの呆れたような声が間違いなくアッシュの中にもある。それを振り切って今度は振り向いて青い目を見た。
「俺のいない七年、どう過ごしていたのか、言ってみろ」
いつの間にか歩みは止まっていた。
アッシュの背後から吹いた風が髪をなびかせガイの短い髪もまた揺れる。
ガイは少し思い出してみるか、と顎に手を添えた。ルークが誘拐され姿を消した後もかわらず使用人としてファブレ邸に従事していたことは間違いない。その間何をしていたかと問われてもそれが全てだ。
「そうか。なら質問を変える。俺がいないファブレ邸はどんな様子だった?」
「お前がいないことを除けば何もかわりはしなかったさ。周囲には誘拐されて家にいないなんて公表しなかったからな。旦那様はいつも通り、奥様は一年のほとんどを寝台で過ごされる。俺はお前の部屋を片付けたり色んな使用人としての仕事をして、ときどき来るナタリアや定期的に立ち寄るヴァンと少し話したり」
すらすらと出てくる内容にガイは何の疑問も抱くことはないようだった。しかしアッシュはあえて客観的に捉え問い返す。
「『俺のいない部屋』は散らかることはない。片付けなどありえないはずだ。『俺』がいないならナタリアも来る必要がない。ヴァンもだ」
声を低めて、ことさらゆっくりと言葉を紡ぐアッシュの様子を不思議そうに見ていたガイの顔が引き締まっていく。目が記憶を探るように伏せられ苦し気に眉根が寄せられた。
「ルークのいない屋敷……? そうだ、なんでルークがいない? いやアッシュは誘拐されていたんだからいないんだ。それは間違ってないよな……? だったらなんで」
思考の渦に飲み込まれたらしいガイの様子はシュザンヌのそれと変わらない。これではっきりした。自覚のあるなしはあるが一様になぜか整合性の取れないことがあるのだ。
「そうだ。俺は今お前が感じているように正しいはずの記憶に疑問を覚えるんだ。だが考えれば考えるほどおかしい部分などない。よりわからなくなる……」
目を開けたガイはもう呆れた顔も穏やかな顔もしていなかった。ここ最近のアッシュの気持ちを理解したと同時にひどい焦燥感に胸を焼かれそうだ。間違っていないのに何かが引っかかって、最後の最後でボタンを掛け違えたような収まりが悪い心持ちがする。
それ以降口数が減ったガイだったが、道々確かめるようにしながら旅の間のことを口にしていく。
「アッシュとは基本別行動だったな。まぁ重要な時には一緒にいた訳だが……」
「俺は外殻大地を降ろす時やヴァンと対峙する時に限って、お前たちと行動を共にしていた。普段連絡を取っていなかったにも関わらずだ。そんな偶然があの戦いの時いくつあった? 今になって思い出してみると薄ら寒く感じる」
「そう……だな、アルビオールでお互い動いていたとはいえ……。いやアルビオールだったからすぐに駆け付けることができた訳で……? 駄目だな、頭の中がもやもやする」
ガイの歯痒い思いはアッシュの胸中を渦巻くそれと同じだ。話して感覚を共有できることはわかったがそれ以上の進展は望めない。
黙々と足を進めるうちに特徴的な像が現れた。崩れてはいるがかなり大きな人物像だ。ガイが横たわる像の全体を眺め次いで驚いたように白い岩肌に触れた。
「へぇ、俺はこんな像覚えがないな……。似たものは見たが……。立っていたら随分大きいだろうし記憶にあると思うんだが……アッシュはどうだ?」
「いや俺も……?」
記憶にない、と言おうとした瞬間頭の中で衝撃が駆け抜けアッシュは右手で額を押さえた。何だ、どうした、というガイの声が遠くに聞こえる。
「知ってい、る……。何か、違う、ものが」
脳裏に閃いた赤い髪は短く、それよりもなぜ自分自身を見ているのか訳が分からない。
これは自分の目線だ。だというのになぜ自分が見える?
(どっちも本物だろ。俺とお前は違うんだ!)
2018.10.7 発行