本日はここまでに致しましょう、という言葉と共に2人は本を閉じた。
ふう、と息をつくと「よく励まれました」と柔らかく笑いかけられる。
ルークは勉強が終わった後のこの時間が好きだ。
集中していた頭がじわーっと解放される感じと、ほんわりした空気、なによりお菓子とお茶が最高に美味しい。
「ふふ、ルキウス様もリュシアン様も、お覚えが早くて本当に驚きますわ。お教えすることがすぐに無くなりそうですわ。今まで市井で過ごされていたというのにそう感じることもありませんし。やはりお血筋かしら?」
まだその名で呼ばれることのないルークは少し恥ずかしそうにはにかみ椅子の上で身じろぎをしてしまう。
本来の名ではないが、由来を思うと嬉しくなる。
「おれはそうでもないけど……。でもアルは本当に覚えるの早いよな」
「フリングス夫人のお教えがよいからです。ルル、自分のペースでいいから焦るなよ」
「うん。おれは元々アルと違って知らないこといっぱいあるしなぁ。でも頑張るよ」
「あら、うふふ。仲がよろしくて良いことね」
始めから手取り足取り勉学以外だけでなくマナーも教えるつもりで屋敷を訪れた夫人は、特にそれについて教えることがないとわかり内心首を傾げたがその理由を訊ねたりはしなかった。
(ピオニー陛下らしいですわ。とりあえずマナーに関してだけは先にご教授する手配をなさったのね)
と、そう納得したのだ。
必要以上に詮索せず、それでいて必要なことをわかりやすく伝えることができ、為人正しい人として教師に選んだピオニーの目は正しかったと言える。
知っていて当然と思われることを知らなくても呆れたりなどしないという教師はルークにとって新鮮だった。
譜術を学ぶ前に、マルクトについてや古代イスパニア語、一般常識等をフリングス夫人は指導する。
このお茶の時間も一応マナー講義なのだが、2人にとっては休憩以外の何物でもなかった。
おっとりした夫人とのお茶は純粋に楽しい。
指導することのないお茶の時間は夫人にとってもまた楽しかった。
仲の良い双子の会話を聞いているだけでも十分なのだが、男の子ということもあって所々懐かしく映る。
「フリングス夫人?」
「あら、いやですわ。つい昔のことを思い出してぼんやりしてしまいました。息子が幼いころのことを思い出していましたのよ。もう随分会っていないのですけれど……子どもの頃はよくこうしてお茶をしたものですわ」
アッシュとルークは「随分会っていない」という所で不思議に思った。
見た限り夫人の年頃はシュザンヌよりやや上だろうが、10才や15才も離れているようには見えない。
話す様子が寂しそうに見えてルークは眉尻を下げた
「え、と……」
「まぁ、リュシアン様。そんな顔をなさらないで。息子は軍で元気にしていますし、それにグランコクマ勤務ですもの。会おうと思えばすぐに会えますのよ? ただそう易々と母の我儘で呼び戻すのもアスランのためになりませんからね」
そういえばフリングス家は代々軍人を輩出しているのだったとアッシュは思い至った。
キムラスカにいた時にその名を聞いたのだから、相当有力貴族だ。
(ガイにもう少し詳しくフリングス家のことについて聞いておこう)
奇しくも、軍と深い繋がりを持つ家柄の人物から教えを受けていること、それを嫌だと思わないことに対してそれこそ本来の血筋を思い出しているとガルディオス邸から使いが来たと門番から連絡があった。
急ぎ、ガルディオス邸までご足労願いたい、という伝言のようだ。
何だろうとルークとアッシュは首を傾げつつガイが呼んでいるのだからおかしなことなどあるはずがない。
「フリングス夫人、今日はここまでということでよろしいでしょうか」
「えぇ。もちろんですわ。私に気兼ねなさらず急ぎ準備なさってくださいませ。また明日、いつもの時間に伺いますわ」
ふわりと笑んで送り出してくれるフリングス夫人に挨拶をして2人は急ぎ足でガイの所に出向くことにした。
「ん、早いな? 勉強の時間じゃなかったか」
「急いでこいって言ったのガイじゃん!」
のんびりとソファに座って早いなどとのたまうガイにルークは頬を膨らませ、ガイは許してくれと言うにとどめた。
ガイによればできれば早くと伝えたが、使用人が本当は急ぎなのだろうと気を利かせて2人に伝えたようだ。
「まぁ、本当はできるだけ早くきて欲しかったっていうのに違いはないから、あの子はさすがだなぁ。よく気が付くいい子なんだ」
相変わらずのんびりしたままの様子で「早く来て欲しかった」と言われても何が何だかわからず2人は顔を見合わせ、アッシュは用事は何なのかと尋ねた。
「うん、結論から言う。ペールがもうすぐここに到着するんだ」
「……ペール、が?」
「もうすぐ……?」
いよいよ、この瞬間がやってきた。
途端にアッシュもルークも緊張を隠せない様子になりその様子を見てガイは苦笑してしまう。
「おいおい、緊張するなよ。あのペール爺さんだぞ?」
「あ、うん……。わかってる、わかってるんだけど」
「どうしてもな」
ふぅ、と息を吐き出すルークを見て、そういうものかとガイは内心思う。
(ま、俺が言ったって説得力はないか……)
ガイにとっては四六時中一緒にいた相手だが、2人にとってはそうではない。
復讐するという目的のガイを見守ってきたという「大人」だ。
(得体のしれない恐怖がある……だろうな。俺があいつらの立場だったとしたらやっぱり萎縮する。あくまで想像でしかないが……)
さらに口を開こうとしたが、ノックの音によってそれは遮られた。
「ガイラルディア様。お着きになられました」
「あぁ、ありがとう。すぐにいくよ」
かちん、と音がしそうな2人に「ここで待ってろよ」と笑いかけると揃ってこくんと頷いたので(口が裂けても言えないが)その様子はとても可愛かった。
堪えきれない笑いを口の中に納めつつ、客人が通される部屋へ向かう。
不思議な感覚だ。
今まで――ファブレ邸にいたこの間まで、客とは腰を折って敬意を表し控えていなければならない相手であった。
ほんのたまに案内することがあったが、基本的に口をきくことは最低限に留めるようにと指導されていたのだ。
それに対して本来はマルクト帝国貴族であるのに、という憤りを覚えることはなかったというのが自分でも不思議だ。
(顧みられずとも、復讐さえ果たせればそれで良かったのか。……それとも性に合ってたのか。俺のことなのに、まるで訳がわからない)
今はっきりと分かるのは、貴族としてガルディオスを背負う自分を誇らしく思う気持ちと復讐しようとしていた相手2人への気持ちが確実に変化した、それだけだ。
扉の向こうに見慣れた顔を認めてガイは破顔する。
「これは……ガイラルディア様。お元気そうでなによりです」
耳に馴染む声が嬉しい。
「ペール! なんだか凄く久しぶりに感じるなぁ」
「そうですなぁ。今までこれほど長くお側を離れたことはございませんでした。此度はガルディオス伯爵として立たれましたこと、心よりお慶び申し上げます。シグムント様、ユージェニー様、マリィ様もさぞお喜びでしょう」
「あぁ……」
そうだろうと思う。
だが、本当にそうだろうか、とも思う。
「お喜びですとも」
心を読んだかのようにペールは力を込めて言った。
その目はただただ感慨深いという色を映している。
「なぁ、ペール」
「なんでございましょう」
ガイは少し視線を逸らし窓の外を見た。
「俺はガルディオス伯爵になった。ただ、俺たちがしようとしていた復讐のことを考えると素直に喜べないんだ。いや、もう俺にはルークをどうこうする気持ちはない……というかできないんだが、なんて言ったらいいのか……。
あんなことを企てて実行して、何年も他国に潜入してた俺が、いまさらのうのうとガルディオス伯爵に、なんて虫が良すぎる気がする」
ピオニーにもあの2人にも言っていないことだったが、ずっとガイの中にあった気持ちだった。
いつかキムラスカ・ランバルディア王国は気付くかもしれない。その時どうすれば良いのかわからない。
ぐるぐると思考は回り続け出口はないのだ。
「伯爵として立つことは間違っておりません。あなた様には嫡男としてその義務がおありになるのです。潜入を咎められたその時はペールをお使いなされ」
意味がわからずガイは聞き返した。
「この爺がガイラルディア様を唆しファブレ家への復讐へ導いたのだとそう突き出してくだされ。この身をもって贖ってみせますゆえ」
「ペール! それは違う! ペールは昔、小さかった俺に違う道を選ぶ方がいいと言ってくれたんだぞ!」
「言うだけで実行しておりません。わしは、幼かったガイラルディア様をマルクト帝国にお連れしなければならなかった。それこそ本来ならあなた様が嫌がってでも戻ってくるべきでした。それをしなかったのは復讐の気持ちが多少なりともあったからに他ならないのですよ」
嘘だと思った。嘘だという確信がガイにはある。
ペールはファブレ公爵に対し複雑な心境を持っていたのは確かだが、積極的に復讐する姿勢は1度も見せなかった。
ガイが望むからそれに従っていたのだ。そして本当に復讐を実行すると決めたその時は自身の心は出さす剣を振るったはずだ。
「俺は、そんなことしないからな」
「ほ、こんな爺などそれくらいしか使い道がありませんぞ」
「いいや! お前にはあの2人の爺さんになってもらう必要があるんだ!! ここまで来ておいて聞くのも何だが、いいよな?」
それにはペールはじんわりと笑って頷いた。
主君に強要されて仕方なくという風情ではなく、むしろ嬉しそうに見える。
「良いですとも。はて、さて。ルーク様はともかく前のルーク様は受け入れてくださいますかな?」
ルークはなぜだかペールの庭作業を見ることが好きで、あまり話せない頃からよくペールの隣に座り込んでいた。
使用人の目がない時はかなり親しく会話をしていた方だ。それに比べてアッシュとの接点はあまりなかったように思える。
「ま、会ってみればお前もわかるさ」
そうして引き合わされたアッシュとルークはこわごわと仇の自分たちを身内とし、あまつさえナイマッハを名乗ることについて拒否感はないのかとペールに問いかけた。
「よろしゅうございますとも。お2人の本来の身分を思えば物足りぬ身分ではありましょうが……」
「そんなことない! なぁペール、おれ、新しい家にも花壇欲しい!」
「おや、ではまた腕を振るいませんとなぁ。アッシュ様のお好きな花も教えてくだされ」
「あ、あぁ……」
緊張など即座になくなったルークは嬉しそうにペールに近づき、アッシュはあまりにあっさり認められてどうすればいいかわからなくなった。
とにもかくにも新しく祖父を交えての暮らしが始まることになったのだ。
元々同じ家に住んでいたこともあり、馴染むまで時間は必要なかった。