夜になってようやくペールはナイマッハ邸に戻ったが、取り敢えず夜も更けているため今日話した内容は明日詳しく話すとだけアッシュとルークに告げた。
帰宅の知らせを受けて慌てて出迎えに部屋を飛び出してきた2人はそれに目を見張る。すぐにでも今日のことを話されるだろうと思っていたし、どうにも気になって心が焦れる。
「ペールお祖父様……」
「なんじゃな、ルル」
不安にゆらゆら揺れるルークの肩を撫でて、疲れているだろうから早く寝るようにと笑う。
アッシュも気にはなるが、全ては明日説明されるのだ。わざわざ明日というからには話は長くなるのだろう。就寝の挨拶をし、ルークを促して部屋を辞した。
自分たちの部屋に戻りアッシュが振り向くと、ルークはふさぎ込んだまま視線を落としている。
見られていることに気付いたルークは顔を上げたが、顔色は悪かった。
「ルーク、ペールの様子を見ただろう? 何かあったとは思えない」
「う、ん……。おれたちがおれたちだっていうのは……その、ばれてなくて、大丈夫だったってことでいい、の、かな……」
多分な、としかアッシュには言えなかった。
ふ、と息を吐いたルークがおずおずとアッシュを見る。
「アッシュ、今日一緒に寝たい……」
それはアッシュにとって半ば予想通りではあった。ルークは少し前まで怖いことがあったり、不安になったりすると一緒に寝たいとせがんでアッシュと一緒に寝ていたからだ。
ここ最近それはなくなっていたのに、それを本当に言い出すなんて、今日のことが本当にルークにとって耐えがたいことだったのだと知れる。
ほんの数瞬アッシュは返事をしなかった。それをルークは否定と受け取ったのか、また俯いてしまい慌ててアッシュはそうじゃないと手を振った。
「最近俺たちは一気に背が伸びたからな。前より狭いかもしれないぞ」
パッとルークは嬉しげに笑い、そんなの気にしないと明るく言ってからはたと気付いたように首を傾げた。
「おれはいいけど、アッシュは狭いのいや?」
「気にしない。ほら、もう寝るぞ」
そう促すとルークは嬉しげに首を縦に振り寝る支度を始め、もう湯浴みを終えていたのでそこまで時間もかからずベッドに潜り込むことができた。
アッシュは仰向き、ルークはアッシュ側に横向きというのが2人で寝るときのスタイルだ。
共に就寝する回数が徐々に減って、ここ最近はなかったためそこまで久しぶりでもないのにもう懐かしい感じがする。
「あれ、アッシュ唇切ったのか?」
すっとルークの手がアッシュの唇に伸びる。
辿るように動く指は触れるか触れないかの近さで、指先の熱が空気越しにアッシュに伝わった。それを意識のすみに押しやって、今日噛みすぎて切れてしまったことと、もう痛くないから大丈夫だということを伝える。
「そ、か。ふあぁ……おやすみ、アッシュ」
「おやすみ、ルーク」
いつもしていたようにアッシュがルークの額に眠りのあいさつのキスを落とすと嬉しげに目を細め、笑みをかたどりながら徐々に眠気に負けるように瞼が落ちていく。
しばらくごそごそ動いて気持ちのいい位置に落ち着いたルークはすぐに夢の世界へ旅立ったのだが、一方のアッシュはなかなか眠れそうにないな、と天井を見るともなしに見た。
隣からは早くもすうすうと規則正しい寝息が聞こえ少し首を回してルークの顔を伺う。
穏やかで稚い、安心しきった顔。ほとんど同じ顔であるということが信じられない。可愛いと思う気持ちが抑えられない。
意識して細く長く息を吐いた。起こすのは本意でないので静かにだ。
(俺は、いつまで……こうやってルークの望むこの優しい触れ合いのまま振る舞うことができるだろうか)
刻一刻とアッシュの中に潜む感情は制御が難しくなってきている。
アッシュにはルークが、そしてルークにはアッシュが必要だということは共通している。
お互い掛け替えのない唯一無二の相手だ。もう離れることはできない。思いは同じだと知っている。
だが、どこまで同じなのか? まだ生まれて5年であるルークの心は本当にアッシュの想いまで辿り着いているのか?
出口のない自問自答を繰り返しているとふと肩に暖かさと重みを感じた。深い眠りに落ちたルークの首の力が完全に抜けたのだろう。アッシュの肩に額がついていた。
守りたいと思う。この隣にある存在を失いたくない。そうだ、今考えるべきことは共に在り続けることだ。
今日、響律符のことを考えて目を輝かせていたルークと、ヴァンに恐れ戦きながら恐怖を押し込めて跪いたルーク。
両方を思い出して、アッシュが守りたいのは言うまでもなく前者のルークだと思いを新たにする。
もっと、もっともっと力が欲しいと心が叫んだ。
ようやくアッシュが眠りについたのはそれから実に1時間後のことだった。
翌日、ガイはナイマッハ邸を訪れた。
遊びにきたぞ、と手を振るガイは本当にそのように見える。それを認めたルークは笑うのを堪えるのに失敗して喉から変な音が出た。それに比例するようにおかしな表情になってしまい、アッシュに小突かれ、あわてて表情を戻す。
部屋に移動してさっそく昨日の話を、とルークが前のめりになって聞くと、ガイが小さく笑ったのでなんだろうと首を傾げる。
「おい、ルーク。さっき俺見て変な顔したろ。あれはなんだよ?」
「……え、いや、あれは、その」
ルーク自身、自覚があったのでそわそわと目を彷徨わせる。なんだよ、言ってみろよ、と促されたのでしぶしぶ答える。
「お前、演技上手いなぁって思ってさ。で、そう思ったら昔のこと思い出して。そりゃ、あの屋敷でばれないはずだよなぁって思ったら……なんか、おかしくて」
「演技が上手いっていうことが褒められたことがどうか微妙だが、ま、あの経験で鍛えられたのは事実だよなぁ。でもまだまだペールの足元にも及ばないなって昨日実感したよ」
あぁー、と抜けるように2人は納得の声を出した。
昨日の痛烈な当てつけは相当のものだった、とアッシュは冷や汗をかいた時の心情までもまざまざと思い返す。
「いいえ、いいえ。とんでもない。あれ位は貴族の嗜み」
それに3人は脱力した。貴族たるもの好む好まざるに関わらず、本音と建前を使い分ける必要がある。それはわかっている。
だが、昨日のあれはその標準から考えてもかなり上を行っている。その思いはガイから聞くヴァンとのやりとりを知って更に深まった。
ルークがぶるりと震えてペールを見る。
「ペ、ペールが怖いっ」
「おや、困りましたのぉ。しかしヴァンデスデルカに手加減は不要です。手心を加えればたちまち足元を掬われますのでな」
怖い、と言いながら本気でペールを恐れなどしない。ペールは一度懐に入れたものに対してどこまでも優しい人だ。
屋敷でペールは常に演技をしていた。庭師として使用人の中でも下に位置するものとして振る舞い、過ぎる振る舞いは決してしなかったし、本来の主人であるガイの祖父として過ごし怪しまれることすらなかった。
着実に積み上げた高くそれでいて見えない強固な壁をたやすく超えたのはルークだ。
庭作業を見ては楽しそうに笑うルークと接するうちにペールはいつの間にか己の内側へとルークを招き入れていることにある日唐突に気付き、しばし愕然としたのだが、まぁいいかと抗うことなくそれを受け入れた。主人であるガイもまた踏み込まれていると読み取ったからだ。
踏み込んだ方であるルークには自覚がなかったという所が侮れない。
「俺はせっかく鍛えたこの演技力でもう少しヴァンデスデルカと接触する。いや、せざるを得ない状況に追い込まれた、かな?」
「え、師匠また来るのか」
そこで初めてヴァンが妹をガルディオス邸に送り込んでくると提案しそれを受け入れたと披露したのだが、それにはアッシュがぐっと眉根を寄せて不快感を顕わにした。
思う所を声に出そうとした瞬間、ガイの手がそれを留める。
「何も言うな。俺だって拒否したかった。が、ペールに考えがあるみたいだから任せようと思う」
「こちらとしてもヴァンデスデルカの考えを掴みませんと動くに動けませんからな。あちらはこちらと伝手を絶やさないなめに身内を送り込んでくるのですから、それを利用しない手はありませんぞ」
「ちょっ、ちょっと待って。おれヴァン師匠に妹がいたなんて聞いてない。って、いやでも妹ってまずくないか!?」
途端にあわあわと手を無意味に振りだしたルークの手が顔に当たりそうになってアッシュが手を掴みそれにとハッとしたルークは謝罪を口にして手から力を抜いた。くたりと力の入っていない手のひらに自分のそれを重ねてそのまま下ろす。
「会ってみないことにはどういう子かわからないし何とも言えないな。ヴァンデスデルカと同じ考えを持っているのか、何も知らないのか……。まずはそこからだ」
「その辺りも含めわしにお任せくだされ。手元に置けるものかどうかの見極めからいたします」
「なにも、しらない……」
そうか、その可能性もあるのだ。だって、利用されるために創られたルークも、アッシュすら何も本当の所は知らない。身内とはいえその懸念は拭えない。
昨日から続く許容量を超えた出来事の連続にルークが頭を激しく振った。
「あーあーも〜わかんねぇ! ペールがうまいことするって言うんだから、信じる!」
「お、おい、自棄になるな」
「え、だってペールなら大丈夫だろ?」
何の含みもなくさも当然と言わんばかりに目をぱちくりしながら言うルークにアッシュは、うっと詰まってそれはそうだが、と歯切れ悪く口の中で言葉を紡ぐ。
それを見ながら、これだからルーク様は、とペールは目を細めた。かつて容易く軽々と飛び越えてきたルークはこうやって今も度々真っ直ぐペールの胸を撃ち抜いてくる。
そしてそれに影響されたのであろうアッシュもまたペールに信頼を寄せ始めているのが面映ゆかった。
「こっちに来る時期とかは今から調整する。あ、そうだった。肝心なこと言ってないな。どうやらファブレ邸に新しいレプリカルークがいるっていう線はなさそうだ」
その言葉に2人は物凄い勢いでガイを見た。そしてガイの表情からそれが間違いなさそうだと読み取って同時に肩の力を抜く。まだ繋いだままだった手を握るとルークも柔らかく握り返してきた。
屋敷の警戒態勢や面会不可など疑問点は残るがずっと気にしていた部分が少しだけとはいえ判明したのだ。
それだけでも昨日の出来事に意味はあったと思うことができた。