常識というものが音を立てて崩壊していくような衝撃だ。
ティア一人の言葉を信じるなど、現実的ではないという感情が確かにある。しかし、今の状況で、しかも精神的にも追い詰められていたであろうティアの話したことが全て嘘だと判断できる要素もまたないのだ。
ほろりほろりと静かに涙を零し続けるルークの体が暖かい。泣いたことで体力を消耗したことを如実に示していた。
ぺたりとくっ付いたまま息を繰り返し、アッシュも何も言わないままじっとルークを乗せていたのだが前触れなく響いたノックとその声にぎょっと頭を持ちあげた。
「アル、ルル、入るぞ。こっちに」
「ちょっと待て、ガイ」
アッシュの静止する声と扉が開いたのはほぼ同時だった。
ルークの肩に手を置いてほんの少し身を起こしたアッシュとガイの目がばっちりと合う。
「ティア、が、なんか……あー……邪魔したか……」
勢いで滑り出た言葉のあとに、目を泳がして頬を掻くガイに、アッシュは深い溜息をついた。
「いや、別にいい……。おい、ルーク、離れろ」
「ん、ガイ? ティアなら寝てるよ」
ガイが入ってきてもルークは気にせずアッシュの上に伏せたまま目だけでガイを見た。
アッシュが肩を揺らしても起きあがる素振りを見せないことに不思議に思ったアッシュが声を掛ける。
「ルーク?」
「うん、なんか、くらくらする。起きたくねぇ……。泣きすぎたみたい」
まぁあれだけ泣けば仕方ないような気もする、とアッシュは持ち上げていた頭を再び肘掛に戻した。
どうしたものかと思ったが、ルークの下敷きになっている体勢ではできることは限られている。
アッシュは何がなんだかわからないという顔で眉尻を下げたまま扉の前で所在なく立っているガイを手招きした。
「なんだ?」
「ルークを起こしてくれ。動けねぇ」
「……はいはい」
ガイは仕方ないなと言わんばかりに一度肩を落としてから、ルークの上半身とアッシュの間に腕を差し込んでルークの上体を持ち上げた。
「何がどうしたっていうんだよ。ルーク? なんでそんなにフラフラしているんだ」
ソファに座らせたものの、ぼんやりと背を丸めたままのルークに声をかけている間にアッシュはソファから立ち上がった。そのまま扉の方へ歩いて行く。
どこに行くんだという質問にペールの所だと返事をする。
「俺はペールの所に行ってくる。ガイにはお前が言え」
それだけ言ってアッシュは振り返りもせずに扉を閉めた。
様子のおかしいアッシュを見送ったガイは疑問を覚えたが、ルークから何か聞けということなのだろうと判断してアッシュが居た所に座る。隣のルークが、うーんと唸っている。
「ルーク、熱でもあるのか?」
「ない、と思うけど……。口は熱い」
「くち?」
ガイは確かめるようルークの額に触れ、熱はないなと判断して腕を降ろした。
なんで口だけ? と思っているガイにルークは問いかける。
「ガイは唇にキスしたことある?」
「へぁ?」
余りに突然そんなことを聞かれたガイは内心飛び上がりそうになって変な声が出た。
今そんな話していたか? とガイの疑問が増していく。
「おれはなかったんだけど」
「あ、あぁ、うん? ちなみに誰と?」
「アッシュ」
「……うん、まぁ、なんだ。なんというか」
まだだったことへの驚きと、それをぺろっと話してしまうルークと、さらに無自覚なのかよというアッシュへの不憫さやなんやらがごちゃごちゃと胸中を吹き荒れた。
しかし、まさかルークから聞くという話はこのことではないはずだと気持ちを半ば無理矢理切り替える。
「まぁ、それはまた追々聞く。で、なんかティアをこっちに連れてきたんだって? その話じゃないのか?」
「あぁ、えっと……」
そうしてルークはアッシュに話したことを繰り返したのだった。二回目ということもあってアッシュの時ほど取り乱したり泣いてしまうこともなく、それはしっかりとガイに伝えられた。
ペールに一通りルークから聞いたことを伝え、ついでに寝込んでいるティアの世話の手配をするように頼んでアッシュは自室の部屋の前に立っていた。
内心は、どんな顔で入ればいいんだ、である。
しかし突っ立って居ても何の進展もないため、意を決し扉を叩いた。
ガイから返事があって中に入るとルークは寝ているようだった。
ガイの膝を枕にして。
「……」
「顔が怖いぞ、アッシュ」
なんとも微妙な顔をするアッシュを見たガイは苦笑した。ルークは本格的に寝入ってしまったらしく会話をしていても身動ぎすらしない。くるりとソファの上でまるまっている。
座るところがないので、アッシュは机の椅子を反対向けにして座った。
その目はずっとルークに注がれていて、ガイが可笑し気に笑い声をあげる。
「お前もルークも、こーんなにわかりやすいのにな」
「聞いたのか」
「ルークから言ってきたんだ。怒るなよ」
「怒ってねぇよ」
おや、とガイは笑いを引っ込めた。アッシュはそんなガイと目を合わせない。
「ガイ」
「うん?」
アッシュはルークに視線を合わせたままガイに向かって声を投げる。
「お前、何とも思わないのか」
「思うさ」
瞬時に返ってきた答えに驚いたアッシュはガイに視線を移した。流されるか、誤魔化されるか、何も言うことはないという返事があると予想していたのだ。
数瞬だけ噛み合った目はガイが先にすっと外したことで途切れる。
ガイの目はゆっくりと瞬き、ふと気づいたようにルークの顔にかかった髪をそっと直した。そのままついでのように髪を撫でる。
「思わない訳ないだろう?」
「ガイ」
「俺にとってお前は幼馴染だ。色々あったが、今は友達になれたと思ってる」
そうガイは唇に笑みを乗せた。アッシュに対する微妙な心境は徐々に変化して、もう憎しみの欠片も見つけることはできない。もちろん昔の苦々しい気持ちは消えないがもうこれは抜けない棘だ。痛みは無くならなくとも鋭さは消えていくだろう。
「ルークはなぁ……。なんて言ったらいいかな。未だに俺はルークの使用人っていう気持ちもあるし、弟のようでもあるし、弟というよりもっと近い気もするし」
生まれた直後から見てきたせいかガイは無条件でルークの味方でいたいと思っている節がある。それはガイ自身自覚していたし、別にそれでいいと思っている。
一から世話をして様々なことを一緒にしてきた分まるで家族のような気持ちがある。
「俺はお前とルーク、両方見てきた。複雑は複雑さ」
「はぐらかされるかと思った」
「そうしても良かったけどな。まぁわかっていたし」
先ほどガイは二人ともわかりやすいと言った。確かにルークは相当わかりやすい。被験者であるアッシュは隠す術を身に付けているだけだ。本来、凄くわかりやすい性格をしている。
ガイに対してそこまで隠すことはしていないのだから当然と言えば当然だった。
「ルークが居なくなって、マルクトで再会したあの頃から、お前たちはそうだったじゃないか。一緒にいたいから行動していた。まぁ、今とはちょっと違ったような気もするけど、心が成長したんだろ」
「……ルークの気持ちはあの頃のままかもしれない」
小さい声だった。多分、顔は見て欲しくないんだろうなとガイは思ったから、見ることはせずそれこそルークの口から聞くべき事柄だから曖昧な笑みを唇に乗せるにとどめたのだった。
次の日目覚めたティアは大慌てで寝てしまったことを謝罪し、さらに自分が零してしまった世界に関わる機密に青ざめ顔色は真っ白だったが、ルークに宥められて落ち着いていった。
「だいじょうぶ。ティアは何も気にしなくていいんだ。おれたち、このことを発表しようだななんて思ってないから」
「ルーク様……」
「様はなしって言っただろ。もし、公にしなくちゃならない時が来たらちゃんとティアに言うよ。その時だってティアから聞いたなんて言わない。な? もうおれは知っちゃったから、いろいろ話そうな! ティアだって秘密にしたまま暮らすなんてしんどいだろ? おれもまだまだマルクトについてなんて分からないことばっかりだから一緒だよ」
説得している訳でもないのに、ルークの言葉はすっとティアに染み込んでいく。
ふっと心が軽くなった気がした。
(私、気負いすぎていたのかしら……。兄さんと離れて、初めて一人でユリアシティから出て。辛かったの? 私……。そうだったの?)
自分自身に問いかける。そうすると身の内からそうだと返事があるようだった。
繰り返し礼をするティアを見送ってアッシュを見ようとしたら、すでにアッシュはいなかった。